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実はすでにこんなに幸せ

 

はじめに

このドキュメントは、以前、僕が 半年間程通っていた心理学セミナー(日本メンタルヘルス協会)の基礎編終了レポートとして作成したものです。したがいまして、内容が個人的で、かつ若干の心理学用語も含まれていると思いますが、もしかしたら、ほんの少しでも、どなたかの何らかのご参考にでもなれば、と考え掲載しました。

また、本レポートを日本メンタルヘルス協会発行の小冊子(心のギフト)にご採用頂きとても感謝しています。

 

 

みんな強く生きている仲間

毎講座、同席(同じテーブル)の人達で数回のワークを行なった。講座によっては、小学校時代からの親しい友人にも話したことがない心の奥に置いていた事なども話したりした。特に前編最後の講座で、ライフラインという、時間(年齢)を横軸に、自分の今までの感情の起伏(幸せ〜辛い)を縦軸としたグラフを作成するワークがあった。


僕は、小学校〜中高校にかけては、父が酒乱(今で言うアルコール依存症)と暴力で、また極度の状態の時は大阪の外れの小高い丘の上にある精神病院に入院し(今で言う統合失調症だったと思う)、父の看病や生活を支えるために無理をしたため母も過労で倒れ、福祉のお世話で何とか生きていた一時期があったなど、かなり人並み外れた浮き沈みの激しい人生(ライフライン)だと思っていた。でも、このワークで、他の人のライフラインの話を聞くと、もっともっと辛い時期を乗り越えて来られた人も何人もいることを知った。

 

講師の方々の実体験話やこのようなワークでのリアルな目の前の人達の話は、本やインターネットなどで読んだ話よりも、やはりインパクトが大きい。色々と考えさせられる。自分自身について、また、自分の周りのことについてじっくりと考えることが出来た。

 

僕は、色々辛い事が重なり精神的にかなり落ち込んでいる時など、周りの普通の人々が、とても幸せそうに見えた。自分だけが色彩の無い灰色の世界にいて、周りの人たちは鮮やかな色に彩られたれた活気のある世界にいる。自分とは、そもそも存在している世界や次元が違うようにさえも思えた。そして、その違いを意識すると、さらに気分の落ち込みが大きくなって行くという悪循環スパイラルにはまった。

 

でも、今は随分と変わってきた。どんな人でも、その人その人の人生があり、もちろん楽しいこともあり、時には、死にたくなるような辛い事や悲しいことがあり、でも、それら全てを包括したものが、その人の人生なんだと。今この人生が、取りも直さず僕の人生なんだと。この言ってみれば当たり前のことだが、この当たり前のことに気づいてきたのだ。でも、実は、この当たり前のことに気づくことがとてもとても重要のように思う。

 

地下鉄心斎橋駅のホームに並び電車を待つ人々、エスカレータを駆け上がり先を急ぐ人々・・
そんな人々全ての一人々々には、語り尽くせない程のその人その人の人生があり、それは必ずしも楽しい事だけとは限らないだろうし、人には話せない辛い出来事や思い出を秘持しているかもしれない。でも、それがその人の大切な人生であり、そして、みんな、その人生を投げることなく力強く生きている。ふと、そう思うと、ホームに並ぶ見ず知らずの人々に奇妙で少し不思議な親近感を感じた。みんな、この地球に於いて夫々の人生を力強く生きている仲間なんだと。

 


もっと人を好きになった

僕は、子供の頃から興味の対象が人よりもモノに偏っていた。友達とワイワイ外で遊ぶよりも、どちらかと言うと、一人で工作をしたり絵を描いたりする方が楽しいと思うことが多かった。今でも機械やコンピュータを相手にしている方が、気が楽でリラックスできる。だから、受講して初めの頃は、各講座でのワークや話し合いがあまり好きではなかった。講義時間がその分だけ少なくなり損をしたように思えたり、講師でない人の話や意見を聞いてもあまり得るものが無いようにも思えた、また、自分が人に役立つ話しや意見を述べれるとも思えなかった。


でも、回を重ねるにつれて、色々な人の話を聞いたり、自分の話を真剣に聞いて貰っているうちに、だんだんとワークや話し合いが楽しくなってきた。

 

普段の会話や飲み会というと、やはり同じような分野、価値観の人間同士が集まることが殆どだし、家族や友人関係以外の人間関係の大部分は、○○会社の△△さんとか課長の△△さんとかの肩書きや役割や利害関係に要因し成立している。だから会話の内容や方向性が、どうしても偏ったものになり、陳腐化した同じようなものになってしまう。

 

ところが、このセミナーでのワークや話し合いは、肩書きによらない全くニュートラルな人間関係によるものであり、また、世代や分野や価値観の違う人達と、こんなにフランクに話し合えるのだ。これは、実は極めて希少で面白いチャンスと言える。このことに気づいてきたのだ。


そして、僕は、自然と「人との会話って、こんなに楽しいものだったんだぁ」と思うようになった。帰りの最終電車の時間の関係で、講座終了後の飲み会(夜の食事会)には出ないでいた。でも、セミナー終盤になって、途中まででもいいし、また、もし終電に遅れてしまったらカプセルホテルにでも泊まればいいやっと考え、参加するようにした。
初めて会って話したのに、本当に暖かく迎え入れてくれた。
人生の大先輩から、とても貴重なお話を聞くこともできた。
ほんとうに、この一時の出会いや会話を楽しむことができたのだ。
最初からもっと参加していたらよかったと、今、ちょっと後悔。
でも、今からでも遅くはない。
再受講で参加できるチャンスがあれば積極的に参加しようと思う。

 

 

少し話は少しそれるが

僕は、車中でじっくり読書や考え事をするのが大好き。だから、大声で会話するオバサンはどうにも許し難く、以前の僕だったら、思わず注意をしてしまったりしたのだ。しかも、その注意の仕方も正しいIメッセージ(心理学用語)から程遠い「うるさいから電車の中では静かにしてください!」と殆ど命令口調のものだった。ちなみに、何故か可愛い女子高生達がいくら大声でキャピキャピ騒いでいても、全然イライラしない、むしろ心地よい音楽のようにさえ感じてしまう、だから、僕がオバサン達に注意したのは正義感などの高尚なものによる動機ではなく、単なる自己中心的なエゴからの注意だったのだと思う。

ところが、このセミナー受講の終盤の頃、行きの電車内で、まさに僕の嫌いな部類の肉食系オバサン達が、僕の前の席で大声で話しているのに、あらあら不思議なことに全然イライラしない。その大声の会話音は電車の走行雑音に同化して快でも不快でもない単なる環境雑音の1つに感じるのだ。僕の受容ラインが変化して問題なし領域が拡大したのだろうか?それとも、好きな人の範囲が拡大し、肉食系オバサンも許容できるようになったからだろうか?とにかく、最近、周りの人に対して何だか以前よりずいぶんと寛容になれたように思う。

「なんだか、もっと人を好きになれた」
そして
「なんだか、人に対して寛容になった」
これは、このセミナーを受講して得ることができたとても大きなことのように思う。

何かチャンスがあれば人の集まるところには出来るだけ顔を出そうと思っている。
今まで、招待が来たものの、何だかしり込みして参加しなかった商工会議所主催のレセプションとかセミナーとかにも積極的に参加して行こうと思っている。



実はすでにこんなに幸せ

この講座で繰り返し繰り返し述べられているとても大切なメッセージの1つに、今、この日常の幸せを感じることの大切さがある。言葉にすると簡単だが、実際は難しい。気を抜くと直ぐ、今満たされていることに感謝するよりも、満たされていない部分、気に入らない部分に意識がいってしまいイライラしたり、怒ったり、自ら不愉快な気分に陥ったりしてしまう。しかし、僕は、これでも昔に比べると、少しずつではあるが、満たされていることに意識が向くようになり、日々感謝できるようになって来たと感じている。

 

先日、中学生の息子と、リビングで寝ころがってテレビを見ていたら、突然、息子は、何かに気づいたらしく、リビングに面しているベランダに跳び出て行った。見ると、マンションの細長いベランダに小さく丸くなってしゃがんで何かしている。何してるの?と聞くと、カナブン(虫)を助けていると言う。カナブンはひっくり返ってしまうとなかなか自力では起き上がれず、助けてあげないと干からびてしまうと言う。
マンションの廊下や道端で何度か見たような記憶がある息子のこの光景。
ふと、今まで全然気がつかなかったあることに気がついた。
自分の息子はこんなに優しい心を持って育ってくれたのだ。
これ以上何を望む必要があるんだろうか?これで十分じゃないか。
今まで何故こんな簡単なことに気づかなかったのだろうか。
「いい高校に進学」そして「一流大学」・・なぜそんなど〜でもいいことに勝手に期待を掛けていたのだろうか。
ベランダから戻って来た息子の頭を何年かぶりにグリグリ撫でてやった。
息子はキョトンとしていた。
僕の目に少し涙がにじんだ。
やはり息子はキョトンとしていた。

何気ない毎日。
朝、起きると、妻との「おはよう〜」のあいさつ。
朝からいきなりパソコンゲームを楽しんでいる息子とも「おはよう〜」のあいさつ。
リビングの片隅ではみかん(うちの愛猫)が丸くなって気持ちよさそうに寝ている。
そして、妻が作った朝食を食べる。
この何気ない日々が、実はとても幸せなのだと思う。
最近、よくそう感じる。

 


妻との会話

僕の妻も、僕より1ヶ月ほど遅れてこの講座を受けている。だから、自然とこの講座のことが話題になる。妻が講座で学んだことをよく僕に話してくれるのだが、僕も勿論受けている筈の講座なのに毎回、不思議なことに新鮮なのだ。ほ〜お〜先生はそんなことを言ってたのかぁ、と新たな発見があるのだ。僕の記憶力がお粗末なためなのか?受け手によって受け取るものが異なるためなのか?多分その両方によるものだと僕は思う。

ある日、講座の会話の延長で、妻が、次のような面白い話を持ち出した。
それは以下のようなもの。
「ねえ、もし、世界トップの大富豪の2人(ビル・ゲイツとウォーレン・バフェット)がその合わせた全資産(10兆円ぐらい)と引き換えに、唯木(うちの息子)を譲ってくれないか?と言われたらどうする?」
「もちろん譲らないよ」
「そら、そうよね」
「と言うことは、私達は既に10兆円以上の資産を持っているに等しいということだよね」
「えっ・・・」
僕の妻は、時々、とても面白い発想をする。
僕は、こんな妻が大好きだ。

 

 

最後に

「も〜いいかい?ま〜だだよ〜!」すぐ隣の公園で元気に遊ぶ子供達の声、そして「ジージーミーミー」と大合奏する蝉の鳴き声を聴きながら、冷たい麦茶を片手に、今、こうやってこのレポートを書いている。
この何でもないことが、とてもとてもとても恵まれた幸せな状況なのだと、今、真に、そう思う。

この恵まれた宇宙に生まれたこと。
この恵まれた地球に生まれたこと。
この恵まれた日本に生まれたこと。
そして
この素晴らしいセミナー参加できたこと。
この素晴らしい講師の先生、スタッフの方々、受講生の仲間の方々に出会えたこと。
全てに感謝します。
本当にありがとうございます。

 

 

もし、ほんのちょとでも、どなたかの、何らかの、ご参考にでもなれば幸いです。

 

 

 

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